良くないところに目が向くことってあるよね

なんでもできる友達を見て、自分ってなんてダメなんだろうと劣等感を感じる。
他人の話を聞かない上司に、話を聞いてよ、といらいらする。
自分のあんなところ嫌だな
あの人のこういうところ気になって辛い
って思うことありませんか?
結婚している友達で、
パートナーがこんなことをしてくれなくて嫌いになってくる
とこぼす人がいたり、
産休している奥さんに対して、
帰ってきて家が汚いと本当に腹が立つ
と怒る先輩がいたり、
自分ができることを他人ができていないように思えて、気になる人もいたりいなかったり…
就活の時に乱用した、履歴書にバカ真面目に短所を書かず、長所を短所っぽく言い換える小技。
たとえば、
「優柔不断 → 慎重に物事を判断できる」
「頑固 → 意思が強くブレない」
その小技は、きれいごとにも思えたし、感情が伴うとできなくなる。
自分に対しても、誰かに対しても、
良いところがあるのはわかる。
でも、悪いところが我慢できない!!
ってなっちゃうことってあるよね。
え、あるよね??
そんな時、レンズを意識するとちょっと楽になるって話、聞いてくれますか?
凸凹しちゃってんのよ

みんな知っているように、人の「良いところ」は、違う角度で見ると、「悪いところ」だったりします。
逆もまたしかり。
しかも、一見つながりが無いようなことが、表裏一体になっていることもある。
そんなこんなで、人って凸凹(でこぼこ)していて、
どこから見るかで、凸(良いところ)は凹(欠点)になるし、
思いもよらない凹が、凸だったりもする。
そんなでこぼこを見る時に、私たちは知らぬ間にレンズをかけています。
しかも、レンズはその時々で形を変えるのです。
いろんなレンズかけちゃってんのよ

あの人がいやだ!ってときって、いやなところばっかり見えませんか?
嫌な気持ちのレンズのときは、
嫌な凹がどこまでも深く見えて、不思議とどこにも凸が見当たらなくなる。
例えば、
嫌いな上司がちょっと近くで話しかけてくることすらも嫌な部分に思えたり、
成績が悪いだけなのに、自分がなにもかもできないように感じたり。
期待値が高いレンズをかけると、
急に凸がなだらかになって見えて、思うような高さの凸に感じないことも。
感情に囚われているとき、レンズはゆがんだり、汚れて一部が見えなくなってたりするのです。
どうせなら凸側から見てみよう

自分や他人が嫌になってしまった時に、
自分がレンズをかけていることを意識をして、凸側からみてみるだけでも私は変化がありました。
この凸ってどんな風に作られていったんだろう
とか、
この凹をなくしたら、あの凸が消えるかも
っていう意識を取り戻せることがあります。
感情に囚われているときって、そういうのも忘れちゃってること、あるよね。
あの上司って本当に話を聞かないけど、それって、企画を通してくれる推進力の裏返しなのかもしれないなあ
そんな風に一息つくことができて、レンズが汚れているかもしれないって気づけたら、他の凸が見えてくる可能性まで出てきます。
きれいなレンズをかけていたい

まずは自分がレンズを通して物事をみていると自覚してみる。
もちろん、
労働力を搾取されてるのに、
でもあの人はこういう面から見るといい人だし、
無理してでも、頑張ってあげなきゃ
なんてする必要はないし、
私はこういう人間だ!
って自分を正当化するのは違う。
でも、レンズを意識することによって、
他人を責めすぎたり、委縮しすぎて、できることができなくなっている自分を、冷静にかえりみるきっかけになります。
そうしていくうちに、次第に自分のかけているレンズがきれいになっていき、
ささいな幸せを感じやすくなったり、凸がたくさん見えるようになったりするかもしれません。
もしよかったら、試してみてください。
そして、私の欠点もそんなふうに受けて入れてくれたらうれしいな、
なんてね。
隣の芝が青いになっちゃうときのつらさはこちら
なんで「他人の成功」って「自分の失敗」みたいに感じちゃうんだろうね。